林檎とフクロウ

故きを温ねて新しきを知る――哲学や宗教学などの人文科学を読み解き、生きる道を見出すことを目的としたブログです。

煩悩について調べてみた

仏教では人生は苦であると定義付けていますが、それで御終いではありません。その苦の原因まで明らかにしています。それが煩悩です。

 

f:id:kanzash_kito:20200727165847j:plain

 

煩悩と概要

煩悩とは、心身を煩わせ悩ませるような心のはたらきや浴のことです。

迷いや苦しみの原因となります。

 

煩悩と漢字

煩悩は1人につき108種類あると言われています。その108種類ある煩悩を一文字に表した漢字があります(下図)。

この漢字は「苦平悪意舌耳女子身鼻眼浄染」で構成されており、総画数は108画となっています。

f:id:kanzash_kito:20200727150159j:plain

煩悩と数

先述したように煩悩の数は108あり、除夜の鐘を除夜の鐘を108回衝くのは108の煩悩を滅するためと言われます。しかし、実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまちであり、煩悩を3つとする宗派もあれば、84000もあるとする宗派もあります

また108の由来も様々あります。

由来①六根説

六根(6)×好・悪・平(3)×浄・染(2)×三世(3)をすべて掛け合わせると108になるという説があります。

六根とは人眼、耳、鼻、舌、身、意の6つの感官能力のことです。

好・悪・平人間の感情のあり方を表しています(好は快感、悪は不快、平はどちらでもないという意味)。

浄は清らかな感情染は汚い感情という意味。

三世過去・現在・未来前世・今世・来世を表します。

由来②四苦八苦

四苦(4×9)と八苦(8×9)を足した数が108になることから、煩悩は108個あるとされている説。

由来③暦

月の数の12、二十四節気の数の24、七十二候の数の72を足した数が108となる説。

由来④無限

仏教では、108という数字を「非常に多い」「無限」という意味で使うことがあります。

由来⑤十纏・九十八結

十纏九十八結を足して108とする説。

 十纏とは、無慚(失敗や罪を犯しても自身に恥じない)・無愧(失敗や罪を犯しても他人に恥じない)・嫉(ねたみ)・慳(もの惜しみ)・悔(後悔)・眠(心と体を眠らせる)・掉挙(落ち着きがない)・惛沈(気が滅入って塞ぎこむ)・忿(失望による怒り)・覆(失敗を誤魔化して反省しない)という10種類の悪い心を意味します。

 

九十八結とは、人の心を輪廻の世界に結びつける煩悩の総数です。結は、煩悩が人の心を縛りつけていることを意味します。

 

出典:百八つの煩悩と呼ばれている理由は?数の由来とされる4つの説を紹介! | 贈り物・マナーの情報サイト | しきたり.net

 

煩悩と無明

無名とは真理に暗く道理事象を明らかに理解できない精神状態を言います。無知とほぼ同義。

最も根本的な煩悩であり、迷いの根源と考えられています。

また、無明(無知)であるために、思い悩み、煩悩が生じ、煩悩があるが故に、苦しみが生じるとされます

 

煩悩と三毒

三毒は人間の諸悪・苦しみの根源であり、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩(貪・瞋・癡)を指します。

  • ・・・貪欲とも言う。貪り必要以上に求める心。
  • ・・・自分の思い通りにならないものに対して怒る心
  • ・・・愚癡とも言う。真理と事象に迷う心

 

煩悩と根本煩悩

三毒(貪・瞋・癡)慢・疑・悪見を加えた六種の煩悩を根本煩悩としました。

  • ・・・他人と比較して思い上がること
  • ・・・無常・苦・無我・涅槃等の真理に対して疑い、躊躇する心
  • 悪見・・・間違った見解

 

煩悩と随煩悩

根本煩悩に付随して起こる悪い心を随煩悩と言います。

  • 忿・・・激発する怒りの心
  • ・・・恨む心、悪意をもって恨み続ける心
  • ・・・心がねじまがり、ひねくれる心
  • ・・・名誉や利得のために罪を隠す心
  • ・・・名誉や利得のために人をあざむく心
  • ・・・こびへつらう心
  • ・・・人よりも優れていると思い、おごりたかぶる心
  • ・・・人を傷つけ悩ませる心
  • ・・・人の幸せを憎み、怨んでねたむ心
  • ・・・他人に分け与えることを惜しむ心
  • 無慚・・・自己と真実の教えに恥じず、善を拒否する心
  • 無愧・・・不正を見ても恥じず、悪行を好む心
  • 不信・・・因果、三宝など心を清める法を信じない心
  • 懈怠・・・善を行い悪を止めることを怠り怠ける心
  • 放逸・・・染を防ぎ浄を修することを怠り怠ける心
  • 惛沈・・・くらく沈み込む心
  • 掉挙・・・たかぶる心
  • 失念・・・忘れる心
  • 散乱・・・乱れる心
  • 不正知・・・間違って知り、善を否定し悪を肯定する心

 

煩悩と五蓋

五蓋とは、仏教における瞑想修行を邪魔する、5つの障害。つまり5つの煩悩の総称です。

蓋とは文字通り、認識を覆う障害のこと。

  • 貪欲・・・渇望・欲望
  • 瞋恚・・・怒り・憎しみ
  • 惛沈・睡眠・・・倦怠・眠気
  • 掉挙・悪作・・・ 心の浮動、心が落ち着かないこと・後悔
  • ・・・疑い

 

煩悩と結

生きとし生ける者が輪廻に縛り付ける束縛としての煩悩をと言います。このがあるため、人は苦に満ちた生を繰り返すことになるのです。

煩悩と五上分結

五上分結とは、修行者を三界における上方の「色界」「無色界」へと縛り付ける「5つの束縛」としての煩悩の総称です。

  • 色貪・・・色界に対する欲望・執着
  • 無色貪・・・無色界に対する欲望・執着
  • 掉挙・・・心の浮動
  • ・・・慢心
  • 無明・・・根本の無知

この5つを断つことで修行者の到達しうる最高位である阿羅漢果へと到達出来ます。

煩悩と五下分結

五下分結とは、修行者を三界における下方の「欲界」へと縛り付ける「5つの束縛」としての煩悩の総称です。

  • 貪欲・・・渇望・欲望
  • 瞋恚・・・悪意・憎しみ
  • 有身見・・・我執
  • 戒禁取見・・・誤った戒律・禁制への執着
  • ・・・疑い

 

煩悩と煩悩具足

仏教ではすべての人間の真実の姿を「煩悩具足の凡夫」と説いています。

人は煩悩で出来ており、煩悩以外に何もないという意味です。

人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、妬みそねみなどの、塊である。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん断ち切れるものでは絶対にない

 

出典:一念多念証文

 

煩悩と煩悩即菩提

人は「煩悩具足の凡夫」の通り、煩悩で出来ています。故に、煩悩をなくすことは出来ません。

そもそも煩悩が無ければ菩提(悟り)を目指す心も生まれません。つまり煩悩が転じて悟りに繋がるのです。これを煩悩即菩提といいます。

 

最後に

苦しみの原因は煩悩にあります。それに気づいた釈迦は6年間苦行を行い、煩悩を断ち切ろうとしました。しかし、そこに幸せはありませんでした。それどころか、煩悩こそが悟りを目指す心だったのです。

まさに煩悩は毒でもあり薬でもあるのです。

故に煩悩との付き合い方が重要なんですね。

釈迦の生涯について調べてみた

先の記事でも述べましたが、釈迦は「人生は苦ばかり」という人生観を持っていました。

厭世的とも言える人生観は何故生まれたのでしょうか?

それを知るには、釈迦の生涯について知る必要があります。

 f:id:kanzash_kito:20200726145449j:plain

 

釈迦と誕生

釈迦は元前5~6世紀頃、釈迦族の国王であるシュッドーダナと隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘・マーヤーの間に生まれました。

マーヤーは出産のためにコーリヤに帰ろうとしていた道中、ルンビニー園という花園に差し掛かったときに産気づきました。そこで釈迦を出産しました。

生れ出た釈迦は7歩あゆむと、右手を上に、左手を下に向けて、天上天下唯我独尊』と言いました。これは「この世界に生きる人々は誰一人として尊いものである」という意味です。

マーヤーは釈迦を出産した翌週に高熱で亡くなります。

 

釈迦とアシタ仙人

ある時、徳の高いアシタという仙人が、尊い赤ちゃんが生まれた不思
議な徴を見ました」と言って、遥々訪ねてきました。喜んだシュッドーダナは仙人を城に招き入れ、釈迦について占ってもらいました。

すると。アシタ仙人は涙を流し、言いました。

「これは、これは、尊い王子さまです。後には立派に成人なさり、必ずや人々の悩み苦しみ悲しみを救って下さる仏陀(目覚めた人)とおなりになりましょう」

それに対して「何故泣くのか」とシュッドーダナは問うと、アシタ仙人は。「私は、もう年をとってしまって、この王子さまがやがて仏陀とおなりになり、その尊い教えの恵みに与あずかることが出来ないのが悲しいのでございます」と答えました。

シュッドーダナは釈迦に王位を継がせるべく、優れた教育が受けられるよう環境を整え、望むものは何でも与えました。そのお陰で、釈迦は、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育ちました。しかし、高い感受性ゆえに思い悩むことも多かったのです。

 

釈迦と結婚

釈迦は16歳(19歳という説もある)の時、いとこのヤショーダラーと結婚し、更に息子ラーフラを授かります

 

釈迦と四門出遊

順風満帆な生活を送っていた釈迦ですが、ある時、城の東門から出る時に老人に会い、南門より出る時に病人に会い、西門を出る時に死者に会い、「この身には老いも病も死もある」と生の苦しみを感じました。そして、北門から出た時に一人の修行者に出会い、世俗の苦や汚れを離れたの修行者の清らかな姿を見て、出家の意志を固めました。このエピソードのことを四門出遊と言います。

 

釈迦と出家

釈迦は王族としての安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家しました。

城を出た釈迦はまず、バッカバアーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマプッタという三人の仙人を訪ねて教えを乞いました。しかしそこで納得のできる答えが得ることは叶いませんでした。

 

釈迦と苦行

釈迦は当時インドにあったバラモン教の苦行信仰の影響から、様々な苦行を行いました。以下はその一部です。

  • しばらく息を止める修行
  • 太陽の直射日光を浴びる修行
  • 座ろうとすれば後ろへ倒れ立とうとすれば前に倒れたり片足立ちをするなどの激しい肉体運動など厳しい修行
  • 水と豆類などで何日も過ごす断食修行

釈迦は6年にも及ぶ修行により心身を極度に消耗し、身体は皮のみの痩せ細ったものになりました。

釈迦は苦行のみでは悟りを得ることは出来ないと理解すると、修行を中断し、身体を清めるために沐浴をしました。そして樹の下で座っていると、スジャータという村娘に乳粥を施され、なんとか気力を回復させました。

 

釈迦と琵琶の弦

「琵琶の弦は締め過ぎると切れてしまい、緩め過ぎれば良い音が出ない」

ある時、そんな歌を耳にした釈迦は、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟って苦行をやめました。

 

釈迦とピッパラ樹

体力が回復した釈迦はピッパラ樹と呼ばれる菩提樹の下に座して瞑想に入り、悟りに達して仏陀になりました。これを成道と言います。釈迦が35歳の時である。

 

釈迦と梵天

釈迦は悟りを開いたものの、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至りました。釈迦の自らが得た方が当時の考えに逆らう物であったからです。

そこに仏教の天部の一柱である梵天が現れ、一部の人たちは悟ることができるであろうから、教えを説くよう釈迦へ懇願しました。これを梵天勧請と言います。

釈迦はそれに応え、教えを説くことを決意しました。

 

釈迦と入滅

悟りを開いた後、45年間にもわたり各地方へと教えを説いて回りました。

ある日、釈迦は鍛冶屋のチュンダに法を説きました。

その翌日、チュンダは釈迦一行に朝食を振る舞いました。料理を食べた釈迦は激しい腹痛に襲われました。しかし、釈迦は平静を装い、また旅に出ました。

死期を悟った釈迦は生まれ故郷に向かいますが、その道中であるクシナガラという村の2本の沙羅双樹の下で横たわり、そこで亡くなりました。80歳没。

 

最後に

いかがだったでしょうか?

釈迦は四門出遊の際に生の苦しみを感じ、厭世的な人生観の原型を完成させたと思われます。しかし、それらに怯えることなく、悟りと法をもって立ち向かいました。

釈迦の人生は我々に様々なことを教えてくれますね。

仏教における苦について調べてみた


昨日の記事で一切皆苦について触れました。他にも、仏教の初期の経典に「色は苦なり」「受想行識も苦なり」としばしば説かれいます。

そう、仏教にとって”苦”は大きな議題なのです。

そんな苦について調べてみました。

 f:id:kanzash_kito:20200726145138j:plain

 

苦と常楽我浄

釈迦が出家した時、衆生の多くは人間世界のこの世が、以下のものであるとみなしていました。

無常であるのに常と見て、

苦に満ちているのに楽と考え、

人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、

不浄なものを浄らかだ

これを四顛倒と言います。

釈迦は悟りを開いた直後にまずこの四顛倒をただし、この世は無常・苦・無我・不浄であると説きました(これが諸行無常一切皆苦諸法無我の基となっている)。

しかし入滅に際して、以下を説きました。

  • - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
  • - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
  • - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
  • - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である

これが常楽我浄と言います。

 

苦と四諦

四諦とは苦しみに関する四つの真理です。

苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つを指します。

苦諦

迷いのこの世は一切が苦であるという真理。

仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされます。

また、人生における根本的な以下の苦を四苦と説きます。

  • 生苦 - 生まれること
  • 老苦 - 老いていくこと。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる
  • 病苦 - 様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる
  • 死苦 -死ぬことへの恐怖、その先の不安

四苦に更に四つの苦を併せて八苦と言います。

  • 愛別離苦 - 愛する者と別離すること
  • 怨憎会苦 - 怨み憎んでいる者に会うこと
  • 求不得苦 - 求める物が得られないこと
  • 五蘊盛苦 - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

集諦

欲望の尽きないことが苦を生起させているという真理。転じて「苦には原因がある」という真理

釈尊は、すべての苦の原因は渇愛貪欲であると説きました(渇愛とは色々な欲望の満足を求めてやまないこと、「貪欲」とは無制限にものごとをむさぼり求めること)。

滅諦

滅諦とは渇愛や貪欲のような欲望のなくなった状態が苦滅の理想の境地であるという真理。

修行者の理想のあり方としています。

道諦

苦滅にいたるためには、七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程である八正道によらなければならないという真理。

これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道であると説きます。

 

苦と八正道

三十七道品とは大般涅槃経、漢訳の中阿含経などに説かれた、仏教において悟りに至るための三十七の修行法のことです。中でも正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8項目が涅槃に至るための八正道とされています。

katamo ca bhikkhave, ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathīdaṃ: sammādiṭṭhi sammāsaṅkappo sammāvācā sammākammanto sammāājīvo sammāvāyāmo sammāsati sammāsamādhi.

比丘たちよ、聖なる八正道とは何か。
それはすなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。

 

出典:相応部, パーリ仏典

 八正道は釈迦が最初の説法において説いたとされています。

正見

物事を正しく見ること。

特に四諦の真理などを正しく知ることであり、正見は「四諦の智」ともいわれます。

正思

正見によって、正しく考えること。

感情に左右されることなく、正しい意識で判断し、心の行いを正しくすることです。

正語

正しい言葉を語ること。

妄語(嘘)や無駄話や陰口・仲違いさせる言葉、誹謗中傷、粗暴な言葉を使わないことです。

正業

正しい行いをすること。

殺生を離れ、盗みを離れ、非梵行(性行為)を離れること。

正命

正しくて健全な生活を送ること。

殺生などに基づく道徳に反する職業や仕事はせず、正当な手段で衣・食・住の糧を得ることです。

正精進

「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を生こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することです。

正念

四念処に注意を向けて、常に正しい意識を持つこと。

四念処とは仏教における悟りのための4種の観想法の総称で、内容は以下の通りです。

  • 身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
  • 受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦
  • 心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常
  • 法念処(法念住) - 諸法の無我を観ずる(諸法無我

正定

正しい瞑想を行なうこと。

定とは精神集中する瞑想のことで、禅定のことを指します。

この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られると言います。

 

苦と二苦

精神的な苦と肉体的な苦は、人間自身の内的な苦であることから内苦と言います。

対して、他人から迫害されたり、自然の力によって悩まされたりする風雨寒熱などの苦を外苦と言います。

 

苦と三苦

生存している者の三つの苦悩を三苦と言います。

  • 苦苦・・・好ましくないものから受ける苦。精神的肉体的苦。
  • 壊苦・・・愛着していたものがくずれるとき感ずる苦。
  • 行苦・・・この世が流転して無常であることを見て生じる苦。

 

最後に

釈迦はこの世は苦であると説きました。なんと厭世的でしょうか。しかし、どの苦も思い当たるあり、それゆえに真理を説いていることを痛感します。

また、釈迦はこの苦を嘆くのではなく、立ち向かっていくよう説いています。立ち向かっていく術まで教えてくれているのですから有難い。

このような人生観は非常に勉強になりますね。

禅宗について調べてみた

 皆さんは座禅をしますか?私はします。

その座禅は、実は立派な禅宗の修行なのです。

アスリートも行う禅を基本の修行形態とする禅宗について今回は見ていきたいと思います。

 

f:id:kanzash_kito:20200726145325j:plain

 

禅宗と概要

禅宗南インド出身で中国に渡った達磨僧を祖とする大乗仏教の一派です。

日本に純粋な禅宗が伝えられたのは、鎌倉時代の初め頃であり、室町時代に幕府の庇護の下で日本仏教の一つとして発展しました。

 

禅宗と禅那

禅は、サンスクリットの dhyānaの音写、あるいは音写である禅那の略でとされています。禅定とも言います。

禅那とは、仏教で心が動揺することがなくなった一定の状態を指します。

ゴータマ・シッダッタ(釈迦)も禅定によって悟りを開いたとされ、部派仏教においては三学の戒・定・慧の一つとして、また、大乗仏教においては六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の一つとして、仏道修行に欠かせないものと考えられてきました。

 

禅宗と不立文字

不立文字とは、文字・言葉の上には真実の仏法がないということ。つまり、仏祖の言葉は解釈によって、いかようにも変わってしまうという意味であり、言語の持つ欠陥に対する注意です。

そのため禅宗では中心的経典を立てていません

 

禅宗と教外別伝

禅宗は不立文字の考えから、教外別伝を原則とします。

教外別伝とは文字や言葉を残す以外にも、禅師の全人格をそのまま弟子に伝えることが重要であること。

 

禅宗と教義

全ての人が例外なく自分自身の内面に本来備えている仏性を再発見するために、坐禅という修行を継続する中で、仏教的真理に直に接する体験を経ることを手段とし、その経験に基づいて新たな価値観を開拓することを目指します。

そうして得た悟りから連想される智慧を以て、生滅の因縁を明らかにし、次いで因縁を滅ぼして苦しみの六道を解脱して涅槃に至り、その後に一切の衆生を導くことを目的とします。

 

禅宗と四種類の座禅

栄西は『興禅護国論』で『楞伽経』を引いて坐禅は四種類あると説いています。

愚夫所行禅

凡夫・外道が、単に心をカラにして分別を生じないのを禅定だと思っている境地。

外道とは仏教以外の宗教者のことです。

観察相義禅

小乗・三賢の菩薩が、教わった仏法を観察し思惟する境地。

攀縁如実禅

大乗の菩薩が、中道を覚って三業を忘れ、有るでもなし空でもなしと達観する境地。

三業とは身体に関わる行為、言語に関わる行為、意志に関わる行為のこと。

如来清浄禅

如来と同じ境地に入り、みずから覚って聖なる智慧が現れたすがた。

 

禅宗と方便

方便とは仏教において、衆生を教え導く巧みな手段や、真実の教法に誘い入れるために仮に設けた教えを意味する仏教用語です。

只管打坐

ただひたすらに坐禅を実践せよの意味。ひたすらとは禅定の深さを表現した言葉です。

この手法によって初心者でも、より深い禅定の境地を、容易に体験可能であるとされています。

公案

 曹洞禅はさておくとして、臨済禅ではいわゆる「公案」といわれる問題を師家(しけ)から与えられ、それに取り組むことによって「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ)の実を挙げることを目指している。公案とはすなわち、歴代の祖師方がそれによって大悟された「機縁」である。

師家の室内に参禅して、知解分別(ちげふんべつ)では到底答えることのできぬ公案の解答(これを「見解」〔けんげ〕という)を呈示して、師家と問答することが、俗に「禅問答」と呼ばれるものである。

とはいえ、頭でいくら考えても一向に出る答えではないので、参禅者にとっては参禅の時間はつらいものとなる。
公案工夫のあるべき姿に関しては、無門慧開禅師が『無門関』の中の「無字」の評唱で、ご自分の体験に基づいて親切の限りを尽くして述べておられるので、詳しくはそれを参照されたい。

要するに、肝心なことは、公案を頭であれこれ考えることではなくて、公案そのものに成り切ってしまうべく、全身全霊を挙げて、しかも間断無く工夫することである。無字の公案ならば、坐禅の時だけではなく四六時中・行住坐臥を通じて「無、無、無」と成り切る工夫をして行くのである。

 

出典:臨済禅の公案工夫 | 霊芝山 光雲寺

 内観

 禅の修行が厳しく、師家のほうでも敢えて禅人を苦しめるのは、富貴で安穏であれば仏道を求めることが困難だからである。釈迦が王位に就いて姫と歓楽に耽り、国中の財産を集めた贅沢三昧の生活を、自ら捨てて出家して六年間の苦行をしたのも、このような理由であるとされる。
不意に病にかかり、気を失って死んだ方がましだと思うような病苦の中にあるときこそ必死に坐禅すれば、またとない大悟の機会となる。たとえ大悟を得られなくとも、その時の苦しみを思い返せば多少の生活の苦しみは取るに足りなくなる。また、無始無終の生死の迷いを打破し、如来の悟りに徹底するような、めでたい事は少しばかりの艱難辛苦なしには、得られるものではないという覚悟が、必要であるとされる。
とはいえ参禅が限度を超えて神経衰弱の苦しみにある修行者を見かねた白隠禅師が、その治療方法としての内観の秘法を伝授した。神経衰弱から来る禅病を直すための心身の休養方法であり、心身がもとより空虚なものであることを体験するために、24時間の睡眠と禅宗的なイメージトレーニングと数息観と丹田呼吸を行う。

 

出典:禅 - Wikipedia

 

禅宗と霊魂

禅宗では肉体と精神とは同一のものと考え、区別をしません。

これは、霊魂の存在を認めると生と死に関する深い執着が発生するため、仏道成就を阻害するとされているからです。

 

禅宗と科学

東邦大学医学部生理学教授の有田秀穂先生は、坐禅によってセロトニン神経が活性化され鍛えられることや、通常とは異なる独特なアルファ波が発生することが、精神的安定や心身の健康の一因であると指摘しています。

 

最後に

いかがだったでしょうか?

兎に角座禅、只管座禅という考えはとてもシンプルでありますが、それ故に奥深く、困難な修行と言えるでしょう。

とは言え、座禅は非常に手軽です。もし心が乱れたら、座禅を組んでみるのも良いでしょう。

三法印について調べてみた

仏教を勉強していると必ず出現する”三法印”。これは仏教を仏教たらしめる理念ですが、人によっては四法だったり一法だったりします。

これらの違いはどうして生まれるのでしょうか?

少し見ていきましょう。

 

f:id:kanzash_kito:20200726145650j:plain

 

三法印と概要

仏教の根本的な理念を示す旗印である三つの教理。謂わばスローガンです。

上記の3つの法印に「一切皆苦印(いっさいかいくいん)」を加えて四法印とすることもあります。

 

三法印諸行無常

諸行無常という真理が説かれている1つ目の旗印です。

出来事や状況、感情など、世の中のすべてのものは決して固定的なものではなくて、常に変化し、生滅をくり返しているという教えです。

人は、金や物、地位や名誉、人間関係や自分の肉体に至るまで、様々なことを「変わらない」と思い込み、このままであってほしいと願うものです。しかし、それが執着に繋がり、失った時の大きな苦しみに繋がります。この執着や苦しみに囚われないためにも、諸行無常を理解することが大切です。

諸行無常印と歌

諸行無常印は様々な歌で詠まれています。

例えば「いろは歌」。冒頭「いろはにほへとちりぬるを」も諸行無常を意味していると言われています。

また、平家物語の冒頭にも引用されています。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
現代語訳:祇園精舎の鐘の音は世の中に不変のものはないという風に聞こえる。

諸行無常印と一休さん

諸行無常を理解するのにちょうど良いエピソードが以下の記事で紹介されています。

禅宗一休さんが、まだ周建といわれる小僧だったとき、寺の和尚さんが大切にしていた茶碗を割ってしまった時のエピソードです。

1kara.tulip-k.jp

 

三法印諸法無我

諸法無我とは宇宙の全てのものごとは繋がりあい、互いに助け合いながら調和・存在しているという教えです。

たとえば「樹が立っていること」は、当たり前のことではなく、土があって、水があって、養分があって、太陽の光があって、樹が現在の姿にまで育ったのです。「樹が立っている」という現在(結果)は、樹へのさまざまな関わりがあった周囲の環境や時間などがあってこそ。つまり、人でも生き物でも、さまざまな繋がりの結果が現在の姿なのです。ですので、「樹そのものが独立して存在している」とは仏教では考えません。

 出典:諸法無我 | 三法印のひとつ。仏教の根幹となる教え お坊さんQ&A hasunoha[ハスノハ]

 

三法印涅槃寂静

涅槃寂静とは、「涅槃寂静」という世界があるという真理を説いたものです。
涅槃寂静」は、苦しみの原因である欲や怒り・愚痴などの煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指します。

涅槃寂静に至るには諸行無常諸法無我の事実を理解しなくてはなりません。

無常の真実に目覚めないもの、無我の事実をしらないで自己をつかまえているものの刹那を追い求めている生活も、無常や無我を身にしみて知りながら、それを知ることによってかえってよりどころを失って、よりどころとしての常住や自我を追い求めて苦悩している生活も、いずれも煩悩による苦の生活である。それを克服して、いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、それこそ悟りであるというのが、涅槃寂静印の示すものである。

 

出典:涅槃寂静 - Wikipedia

 

三法印一切皆苦

先述したように、三法印一切皆苦印(いっさいかいくいん)」を加えたものを四法印と言います。

一切皆苦とは、人生上のあらゆる存在も経験も現象も苦そのものであるということ。ただし、一切皆苦「苦」の意味は、人生・世の中が自分の思い通りにならないことに悩むことです。

 

最後に

いかがだったでしょうか?

仏教では一切皆苦とし、それは諸行無常諸法無我であるが故であり、それらを理解すれば涅槃寂静に至るとしています。要するに諦めろと言っているのです。

ここで勘違いしてはいけないのが「諦める」の意味。

「あきらめる」という言葉には「諦める」のほかに「明らめる」と書いて「物事の事情・理由をあきらかにする」という意味もあります。

「人生を諦める」のではなく、教えを正しく認識し「人生を明らめる」 ことが重要なのです。

浄土教の主な宗旨を調べてみた

先日お話したように、浄土教とは阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教えです。

この浄土思想を掲げる浄土教には様々な宗旨があります。

今回はそれらを紹介していきたいと思います。

f:id:kanzash_kito:20200726145937j:plain

 

1-1.融通念仏宗

融通念仏宗平安時代末期の1117年6月16日に天台宗の僧侶である聖応大師良忍によって開宗された宗派です。

天台宗真言宗に次いで平安時代後期に成立した古い歴史を持つ宗派です。

 

1-2.融通念仏宗と教義

良忍は修行中に、阿弥陀如来から速疾往生(阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」を授かり開宗した。これは、1人1人の唱える念仏の力が小さくとも全ての人の功徳となり、また他の人が唱えた念仏も自分や他の人の功徳になるという考えです。

 

1-3.融通念仏宗と経論

融通念仏宗華厳経法華経を正依としており、浄土系の宗派ですが、浄土三部経である仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経の3つは傍依としています。

 

1-4.融通念仏宗と念仏

融通念仏宗は「大念仏宗」とも呼ばれるように、念仏を非常に大切に捉えています。

 

 融通念仏宗は、観想念仏ではなく、仏の名号を唱える称名念仏を重視することが最大特長であるといえます。
南無阿弥陀仏」を口に出して唱えることによって、具体的に仏を感じ、功徳を互いに分かち合います。

 

出典:融通念仏宗って知ってる?特徴や葬儀の方法まとめ

 

2-1.浄土宗

浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨で、承安5年(1175年)に法然によって開祖されました。

浄土宗の総本山は京都府京都市にある「知念院」であり、本尊となるのは阿弥陀仏阿弥陀如来です。

 

2-2.浄土宗と教義

仏教ではさまざまな修行が説かれています。どれも、私たちの抱える苦しみや悩みから自由になること――「さとり」に至るためのものです。でも、どうでしょう。その修行は誰もができることでしょうか。
いや、なかなかそれは難しい、というのが実際のところです。
時間的、物理的な制約もあるでしょう。しかし何より、煩悩という厚い壁が妨げとなっているからにほかなりません。そこで「お念仏の教え」があります。

 

出典:浄土宗のおしえについて | 浄土宗【公式WEBサイト】

浄土宗は、「専修念仏」を主な教えとし、南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで極楽往生できると考えらえています。

 

2-3.浄土宗と経論

釈迦によって説かれた無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経の三部経がよりどころとされています。

 

2-4.浄土宗と宗派

浄土宗には大きく分けて「鎮西派」「西山派」の二つの勢力が存在します。

西山派が「一類往生説」を説いているのに対して鎮西派は「二類各生説」が説かれています。

 西山派の一類往生説というのは「念仏こそが極楽往生できる唯一の方法」という思想であり、自力では往生できないため他力によって往生しようという考え方です。
一方で鎮西派の二類各生説は「念仏は皆が極楽往生できる方法であり、善行を働くことも極楽往生するための方法になる」という思想のもとに成り立っています。

この2つの思想において、極楽往生のための念仏に重きを置いているという点では同じであると言えます。しかし西山派は他力だけであるのに対し、鎮西派は他力でも自力でも極楽往生ができると説いているのが特徴です。

 

出典:浄土宗ってどういう信仰?葬儀の特徴やマナーは?

 以上の思想の違いから、宗教法人浄土宗に西山派は含まれてはいません。

 

3-1.浄土真宗

浄土真宗は、鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し展開させた宗派です。

浄土真宗の寺社数は18000箇所以上にもなり、日本国内では最大の仏教勢力となっています。

 

3-2.浄土真宗と教義

浄土宗の本尊は、阿弥陀如来の木像や絵像ですが、浄土真宗南無阿弥陀仏の名号のみを本尊とします。

また、浄土真宗には悪人正機という重要な思想があります。

悪人正機

阿弥陀仏が救済したい対象は、生きとし生ける全て者です。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」とされています。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。

 

3-3.浄土真宗と経典

正依の経典は、浄土三部経です。しかし、

七高僧の著作についても重んじます。中でも天親の『浄土論』は、師である法然三経一論と呼び、浄土三部経と並べて特に重んじた。

親鸞は、仏説無量寿経『大無量寿経』『大経』と呼び特に重んじた。

 

3-4.浄土真宗と念仏

「浄土宗は、念仏を唱えることこそが進行を表す証」としているのに対し、「浄土真宗では、念仏を唱えようとする気持ちが大切」であることに重きをおいています。

 浄土真宗が浄土宗と違う点は、極楽浄土への往生のためには念仏を唱えることが必須の条件にはなっていないところです。浄土宗が念仏を唱えることによって往生できるという考えをひといき超え、浄土真宗はさらに、念仏を唱えて信じているならば、その心が信仰心につながると説いています。さらに、念仏を唱えようとする気持ちだけでなく、日々の感謝の気持ちは口に出すべきとしています。

 

出典:浄土宗と浄土真宗 : お葬式なるほどチャンネル

また浄土真宗では葬儀の際、般若心境を読みません浄土真宗では、読経する努力によって報いを得るのではなく、阿弥陀如来のお力に一切をゆだねることで救われるという考え方があるため、あえて読経する必要がないのです。

 

3-5.浄土真宗とタブー

浄土真宗では宗派が始まった当初から食肉妻帯が認められていました(開祖である親鸞自らが公然と食肉妻帯を実行しました)。

一方で、浄土真宗阿弥陀仏を唯一の信仰対象としていることから、他の宗教観が入り込む事を好まない傾向にあり、様々な立ち振る舞いがタブーとされていました。以下はその一例です。

  • お盆にお飾り・迎え火・送り火(元は中国の文化だから)
  • 日毎の吉兆、占い(元は中国の文化だから)
  • 位牌の使用(元は中国の文化だから)

 

4-1.時宗

時宗は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教で、開祖は一遍です。

 

4-2.時宗と時衆

開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も時衆と呼ばれていました。

時衆とは善導の観経疏の一節「道俗時衆等、各發無上心」から来ており、一日を6分割して不断念仏する集団を指します。

 

4-3.時宗と教義

融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説きました。

時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説きました(仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈)。

 

4-4.時宗とご賦算

ご賦算は、念仏札を配る布教活動です。南無阿弥陀仏をひたすら唱えることで極楽浄土へ行ける、という教えを広めるために、一遍はこのような念仏札を配る活動が行われました。

念仏札には「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれていました。これは阿弥陀仏の徳によって、すべての人が往生して安楽の世界に行ける」というのが大まかな意味と解釈されています(諸説あり)。

 

最後に

いかがだったでしょうか?

融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗時宗を簡単にまとめてみました。どれも末法の時代出身だからか、死後の世界とも言える浄土に希望を見出しています。また、念仏を唱えるだけで良いという手軽さから、庶民をターゲットに据えていることもわかります。

大阪には「まんまんちゃんあん」というワードがあります。これも念仏であり、子供も唱えていた他ならぬ証拠ですね。

やはりどんな時代であっても手軽さは受け入れられます。

浄土教について調べてみた

多くの仏教では最終目標に”解脱”を据えてきました。

しかし仏教出身の宗教であるにも関わらず、解脱を目標としない宗教があります。

それが浄土教です。

 

f:id:kanzash_kito:20200726150115j:plain

 

浄土教と概要

まずは浄土に往生し、その浄土で修行して成仏・悟りを目指す教え・信仰のことです。

阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願います。

 

浄土教と起源

浄土教の成立時期は、インドにおいて大乗仏教が興起した時代です。

紀元100年頃に無量寿経阿弥陀経が編纂されたのを契機とし、時代の経過とともにインドで広く展開していきました。

日本には7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられました。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られました。

 

浄土教末法

末法とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としています。釈尊の入滅は五十数説ありますが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)と考えられました。

本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分でしたが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになります。転じて「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えました。

さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなりました(諸説有)。

 

浄土教と教理

浄土教は、この迷いの世界ではまず極楽への往生を目指し、極楽に往生したのち、そこで修行を積んで成仏・悟りを目指します。

往生そのものは基本的には死の瞬間になされます。その際、無量寿経の第十九願に説かれるように、行者は阿弥陀仏や聖衆の来迎を受け、阿弥陀仏に引接されて極楽に向かいます。

 

浄土教と極楽浄土

浄土とは、仏教において、一切の煩悩やけがれを離れ、五濁地獄・餓鬼・畜生の三悪趣が無く、仏や菩薩が住む清浄な国土のことです。

阿弥陀如来西方極楽浄土薬師如来東方浄瑠璃浄土などの種々の浄土があるとされています。

遥か昔、阿弥陀仏は悟りを開き、西方十万億の仏土をすぎた彼方に浄土を構えました。現在でもこの極楽で人々のために説法しています。

この浄土には一切の苦はなく、ただ楽のみがあります。

 

浄土教と修行

浄土教では往生の後、極楽浄土で修行に励みます。

極楽の諸要素は修行に最適の環境となっており、自然と修行が増進します。更に極楽に往生すれば皆、不退転の菩薩となる故に、修行が退転することもありません。

しかも、第十一住正定聚願と第二十二必至補処願において、阿弥陀仏は極楽に往生した者を悟りに至らしめると誓っているので、往生すれば必ず成仏することができることになる。

 

浄土教阿弥陀信仰

阿弥陀信仰とは、阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、「浄土信仰」とも言われます。

浄土教では、阿弥陀仏を念仏することにより、その仏国土である極楽浄土に往生できると説かれている

 

浄土教と他力本願

他力は、仏教用語で、衆生を悟りに導く仏・菩薩の力仏・菩薩の加護のこと。

本願とは、「仏や菩薩が過去において一切の生あるものを救おうとして立てた誓願を意味します。

上記の意味より、阿弥陀仏の本願に頼って成仏することを指します。

 

浄土宗と経典

日本の浄土教では、仏説無量寿経仏説観無量寿経仏説阿弥陀経を、「浄土三部経」と総称します。

 

最後に

浄土教の神髄はその懐の深さと手軽さでしょう。

念仏を唱えるだけで浄土に行ける上に、浄土では阿弥陀仏が世話を見てくれると言います。

やはりいつの時代にも懐の深さは必要のようですね。