煩悩について調べてみた
仏教では人生は苦であると定義付けていますが、それで御終いではありません。その苦の原因まで明らかにしています。それが煩悩です。
煩悩と概要
煩悩とは、心身を煩わせ悩ませるような心のはたらきや浴のことです。
迷いや苦しみの原因となります。
煩悩と漢字
煩悩は1人につき108種類あると言われています。その108種類ある煩悩を一文字に表した漢字があります(下図)。
この漢字は「苦平悪意舌耳女子身鼻眼浄染」で構成されており、総画数は108画となっています。
煩悩と数
先述したように煩悩の数は108あり、除夜の鐘を除夜の鐘を108回衝くのは108の煩悩を滅するためと言われます。しかし、実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまちであり、煩悩を3つとする宗派もあれば、84000もあるとする宗派もあります。
また108の由来も様々あります。
由来①六根説
六根(6)×好・悪・平(3)×浄・染(2)×三世(3)をすべて掛け合わせると108になるという説があります。
六根とは人眼、耳、鼻、舌、身、意の6つの感官能力のことです。
好・悪・平は人間の感情のあり方を表しています(好は快感、悪は不快、平はどちらでもないという意味)。
浄は清らかな感情、染は汚い感情という意味。
三世は過去・現在・未来や前世・今世・来世を表します。
由来②四苦八苦
四苦(4×9)と八苦(8×9)を足した数が108になることから、煩悩は108個あるとされている説。
由来③暦
月の数の12、二十四節気の数の24、七十二候の数の72を足した数が108となる説。
由来④無限
仏教では、108という数字を「非常に多い」や「無限」という意味で使うことがあります。
由来⑤十纏・九十八結
十纏と九十八結を足して108とする説。
十纏とは、無慚(失敗や罪を犯しても自身に恥じない)・無愧(失敗や罪を犯しても他人に恥じない)・嫉(ねたみ)・慳(もの惜しみ)・悔(後悔)・眠(心と体を眠らせる)・掉挙(落ち着きがない)・惛沈(気が滅入って塞ぎこむ)・忿(失望による怒り)・覆(失敗を誤魔化して反省しない)という10種類の悪い心を意味します。
九十八結とは、人の心を輪廻の世界に結びつける煩悩の総数です。結は、煩悩が人の心を縛りつけていることを意味します。
出典:百八つの煩悩と呼ばれている理由は?数の由来とされる4つの説を紹介! | 贈り物・マナーの情報サイト | しきたり.net
煩悩と無明
無名とは真理に暗く、道理事象を明らかに理解できない精神状態を言います。無知とほぼ同義。
最も根本的な煩悩であり、迷いの根源と考えられています。
また、無明(無知)であるために、思い悩み、煩悩が生じ、煩悩があるが故に、苦しみが生じるとされます。
煩悩と三毒
三毒は人間の諸悪・苦しみの根源であり、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩(貪・瞋・癡)を指します。
- 貪・・・貪欲とも言う。貪り必要以上に求める心。
- 瞋・・・自分の思い通りにならないものに対して怒る心
- 癡・・・愚癡とも言う。真理と事象に迷う心
煩悩と根本煩悩
三毒(貪・瞋・癡)に慢・疑・悪見を加えた六種の煩悩を根本煩悩としました。
- 慢・・・他人と比較して思い上がること
- 疑・・・無常・苦・無我・涅槃等の真理に対して疑い、躊躇する心
- 悪見・・・間違った見解
煩悩と随煩悩
根本煩悩に付随して起こる悪い心を随煩悩と言います。
- 忿・・・激発する怒りの心
- 恨・・・恨む心、悪意をもって恨み続ける心
- 悩・・・心がねじまがり、ひねくれる心
- 覆・・・名誉や利得のために罪を隠す心
- 誑・・・名誉や利得のために人をあざむく心
- 諂・・・こびへつらう心
- 憍・・・人よりも優れていると思い、おごりたかぶる心
- 害・・・人を傷つけ悩ませる心
- 嫉・・・人の幸せを憎み、怨んでねたむ心
- 慳・・・他人に分け与えることを惜しむ心
- 無慚・・・自己と真実の教えに恥じず、善を拒否する心
- 無愧・・・不正を見ても恥じず、悪行を好む心
- 不信・・・因果、三宝など心を清める法を信じない心
- 懈怠・・・善を行い悪を止めることを怠り怠ける心
- 放逸・・・染を防ぎ浄を修することを怠り怠ける心
- 惛沈・・・くらく沈み込む心
- 掉挙・・・たかぶる心
- 失念・・・忘れる心
- 散乱・・・乱れる心
- 不正知・・・間違って知り、善を否定し悪を肯定する心
煩悩と五蓋
五蓋とは、仏教における瞑想修行を邪魔する、5つの障害。つまり5つの煩悩の総称です。
蓋とは文字通り、認識を覆う障害のこと。
- 貪欲・・・渇望・欲望
- 瞋恚・・・怒り・憎しみ
- 惛沈・睡眠・・・倦怠・眠気
- 掉挙・悪作・・・ 心の浮動、心が落ち着かないこと・後悔
- 疑・・・疑い
煩悩と結
生きとし生ける者が輪廻に縛り付ける束縛としての煩悩を結と言います。この結があるため、人は苦に満ちた生を繰り返すことになるのです。
煩悩と五上分結
五上分結とは、修行者を三界における上方の「色界」「無色界」へと縛り付ける「5つの束縛」としての煩悩の総称です。
- 色貪・・・色界に対する欲望・執着
- 無色貪・・・無色界に対する欲望・執着
- 掉挙・・・心の浮動
- 慢・・・慢心
- 無明・・・根本の無知
この5つを断つことで修行者の到達しうる最高位である阿羅漢果へと到達出来ます。
煩悩と五下分結
五下分結とは、修行者を三界における下方の「欲界」へと縛り付ける「5つの束縛」としての煩悩の総称です。
- 貪欲・・・渇望・欲望
- 瞋恚・・・悪意・憎しみ
- 有身見・・・我執
- 戒禁取見・・・誤った戒律・禁制への執着
- 疑・・・疑い
煩悩と煩悩具足
仏教ではすべての人間の真実の姿を「煩悩具足の凡夫」と説いています。
人は煩悩で出来ており、煩悩以外に何もないという意味です。
人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、妬みそねみなどの、塊である。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん断ち切れるものでは絶対にない
出典:一念多念証文
煩悩と煩悩即菩提
人は「煩悩具足の凡夫」の通り、煩悩で出来ています。故に、煩悩をなくすことは出来ません。
そもそも煩悩が無ければ菩提(悟り)を目指す心も生まれません。つまり煩悩が転じて悟りに繋がるのです。これを煩悩即菩提といいます。
最後に
苦しみの原因は煩悩にあります。それに気づいた釈迦は6年間苦行を行い、煩悩を断ち切ろうとしました。しかし、そこに幸せはありませんでした。それどころか、煩悩こそが悟りを目指す心だったのです。
まさに煩悩は毒でもあり薬でもあるのです。
故に煩悩との付き合い方が重要なんですね。