三法印について調べてみた
仏教を勉強していると必ず出現する”三法印”。これは仏教を仏教たらしめる理念ですが、人によっては四法だったり一法だったりします。
これらの違いはどうして生まれるのでしょうか?
少し見ていきましょう。
三法印と概要
仏教の根本的な理念を示す旗印である三つの教理。謂わばスローガンです。
上記の3つの法印に「一切皆苦印(いっさいかいくいん)」を加えて「四法印」とすることもあります。
三法印と諸行無常印
諸行無常という真理が説かれている1つ目の旗印です。
出来事や状況、感情など、世の中のすべてのものは決して固定的なものではなくて、常に変化し、生滅をくり返しているという教えです。
人は、金や物、地位や名誉、人間関係や自分の肉体に至るまで、様々なことを「変わらない」と思い込み、このままであってほしいと願うものです。しかし、それが執着に繋がり、失った時の大きな苦しみに繋がります。この執着や苦しみに囚われないためにも、諸行無常を理解することが大切です。
諸行無常印と歌
諸行無常印は様々な歌で詠まれています。
例えば「いろは歌」。冒頭「いろはにほへとちりぬるを」も諸行無常を意味していると言われています。
また、平家物語の冒頭にも引用されています。
諸行無常印と一休さん
諸行無常を理解するのにちょうど良いエピソードが以下の記事で紹介されています。
禅宗の一休さんが、まだ周建といわれる小僧だったとき、寺の和尚さんが大切にしていた茶碗を割ってしまった時のエピソードです。
三法印と諸法無我印
諸法無我とは宇宙の全てのものごとは繋がりあい、互いに助け合いながら調和・存在しているという教えです。
たとえば「樹が立っていること」は、当たり前のことではなく、土があって、水があって、養分があって、太陽の光があって、樹が現在の姿にまで育ったのです。「樹が立っている」という現在(結果)は、樹へのさまざまな関わりがあった周囲の環境や時間などがあってこそ。つまり、人でも生き物でも、さまざまな繋がりの結果が現在の姿なのです。ですので、「樹そのものが独立して存在している」とは仏教では考えません。
三法印と涅槃寂静印
涅槃寂静印とは、「涅槃寂静」という世界があるという真理を説いたものです。
「涅槃寂静」は、苦しみの原因である欲や怒り・愚痴などの煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指します。
涅槃寂静に至るには諸行無常・諸法無我の事実を理解しなくてはなりません。
無常の真実に目覚めないもの、無我の事実をしらないで自己をつかまえているものの刹那を追い求めている生活も、無常や無我を身にしみて知りながら、それを知ることによってかえってよりどころを失って、よりどころとしての常住や自我を追い求めて苦悩している生活も、いずれも煩悩による苦の生活である。それを克服して、いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、それこそ悟りであるというのが、涅槃寂静印の示すものである。
三法印と一切皆苦印
先述したように、三法印に「一切皆苦印(いっさいかいくいん)」を加えたものを「四法印」と言います。
一切皆苦とは、人生上のあらゆる存在も経験も現象も苦そのものであるということ。ただし、一切皆苦の「苦」の意味は、人生・世の中が自分の思い通りにならないことに悩むことです。
最後に
いかがだったでしょうか?
仏教では一切皆苦とし、それは諸行無常・諸法無我であるが故であり、それらを理解すれば涅槃寂静に至るとしています。要するに諦めろと言っているのです。
ここで勘違いしてはいけないのが「諦める」の意味。
「あきらめる」という言葉には「諦める」のほかに「明らめる」と書いて「物事の事情・理由をあきらかにする」という意味もあります。
「人生を諦める」のではなく、教えを正しく認識し「人生を明らめる」 ことが重要なのです。