林檎とフクロウ

故きを温ねて新しきを知る――哲学や宗教学などの人文科学を読み解き、生きる道を見出すことを目的としたブログです。

釈迦の生涯について調べてみた

先の記事でも述べましたが、釈迦は「人生は苦ばかり」という人生観を持っていました。

厭世的とも言える人生観は何故生まれたのでしょうか?

それを知るには、釈迦の生涯について知る必要があります。

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釈迦と誕生

釈迦は元前5~6世紀頃、釈迦族の国王であるシュッドーダナと隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘・マーヤーの間に生まれました。

マーヤーは出産のためにコーリヤに帰ろうとしていた道中、ルンビニー園という花園に差し掛かったときに産気づきました。そこで釈迦を出産しました。

生れ出た釈迦は7歩あゆむと、右手を上に、左手を下に向けて、天上天下唯我独尊』と言いました。これは「この世界に生きる人々は誰一人として尊いものである」という意味です。

マーヤーは釈迦を出産した翌週に高熱で亡くなります。

 

釈迦とアシタ仙人

ある時、徳の高いアシタという仙人が、尊い赤ちゃんが生まれた不思
議な徴を見ました」と言って、遥々訪ねてきました。喜んだシュッドーダナは仙人を城に招き入れ、釈迦について占ってもらいました。

すると。アシタ仙人は涙を流し、言いました。

「これは、これは、尊い王子さまです。後には立派に成人なさり、必ずや人々の悩み苦しみ悲しみを救って下さる仏陀(目覚めた人)とおなりになりましょう」

それに対して「何故泣くのか」とシュッドーダナは問うと、アシタ仙人は。「私は、もう年をとってしまって、この王子さまがやがて仏陀とおなりになり、その尊い教えの恵みに与あずかることが出来ないのが悲しいのでございます」と答えました。

シュッドーダナは釈迦に王位を継がせるべく、優れた教育が受けられるよう環境を整え、望むものは何でも与えました。そのお陰で、釈迦は、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育ちました。しかし、高い感受性ゆえに思い悩むことも多かったのです。

 

釈迦と結婚

釈迦は16歳(19歳という説もある)の時、いとこのヤショーダラーと結婚し、更に息子ラーフラを授かります

 

釈迦と四門出遊

順風満帆な生活を送っていた釈迦ですが、ある時、城の東門から出る時に老人に会い、南門より出る時に病人に会い、西門を出る時に死者に会い、「この身には老いも病も死もある」と生の苦しみを感じました。そして、北門から出た時に一人の修行者に出会い、世俗の苦や汚れを離れたの修行者の清らかな姿を見て、出家の意志を固めました。このエピソードのことを四門出遊と言います。

 

釈迦と出家

釈迦は王族としての安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家しました。

城を出た釈迦はまず、バッカバアーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマプッタという三人の仙人を訪ねて教えを乞いました。しかしそこで納得のできる答えが得ることは叶いませんでした。

 

釈迦と苦行

釈迦は当時インドにあったバラモン教の苦行信仰の影響から、様々な苦行を行いました。以下はその一部です。

  • しばらく息を止める修行
  • 太陽の直射日光を浴びる修行
  • 座ろうとすれば後ろへ倒れ立とうとすれば前に倒れたり片足立ちをするなどの激しい肉体運動など厳しい修行
  • 水と豆類などで何日も過ごす断食修行

釈迦は6年にも及ぶ修行により心身を極度に消耗し、身体は皮のみの痩せ細ったものになりました。

釈迦は苦行のみでは悟りを得ることは出来ないと理解すると、修行を中断し、身体を清めるために沐浴をしました。そして樹の下で座っていると、スジャータという村娘に乳粥を施され、なんとか気力を回復させました。

 

釈迦と琵琶の弦

「琵琶の弦は締め過ぎると切れてしまい、緩め過ぎれば良い音が出ない」

ある時、そんな歌を耳にした釈迦は、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟って苦行をやめました。

 

釈迦とピッパラ樹

体力が回復した釈迦はピッパラ樹と呼ばれる菩提樹の下に座して瞑想に入り、悟りに達して仏陀になりました。これを成道と言います。釈迦が35歳の時である。

 

釈迦と梵天

釈迦は悟りを開いたものの、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至りました。釈迦の自らが得た方が当時の考えに逆らう物であったからです。

そこに仏教の天部の一柱である梵天が現れ、一部の人たちは悟ることができるであろうから、教えを説くよう釈迦へ懇願しました。これを梵天勧請と言います。

釈迦はそれに応え、教えを説くことを決意しました。

 

釈迦と入滅

悟りを開いた後、45年間にもわたり各地方へと教えを説いて回りました。

ある日、釈迦は鍛冶屋のチュンダに法を説きました。

その翌日、チュンダは釈迦一行に朝食を振る舞いました。料理を食べた釈迦は激しい腹痛に襲われました。しかし、釈迦は平静を装い、また旅に出ました。

死期を悟った釈迦は生まれ故郷に向かいますが、その道中であるクシナガラという村の2本の沙羅双樹の下で横たわり、そこで亡くなりました。80歳没。

 

最後に

いかがだったでしょうか?

釈迦は四門出遊の際に生の苦しみを感じ、厭世的な人生観の原型を完成させたと思われます。しかし、それらに怯えることなく、悟りと法をもって立ち向かいました。

釈迦の人生は我々に様々なことを教えてくれますね。