林檎とフクロウ

故きを温ねて新しきを知る――哲学や宗教学などの人文科学を読み解き、生きる道を見出すことを目的としたブログです。

神仏習合について調べてみた

神道について調べていても、仏教について調べていてもブチ当たる神仏習合

宗教界のミラクルとも言える神仏習合について調べてみました。

 

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神仏習合と概要

神仏習合とは、日本土着の神祇信仰(神道仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成された宗教現象です。

 

神仏習合と仏教伝来

552年に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識されました。

日本で最初に出家して仏を祀ったのは尼(善信尼)と『日本書紀』にはあるりますが、これは巫女が日本の神祇を祀ってきたのをそのまま仏にあてはめたものと考えられています(寺院の焼亡による仏の祟りという考え方も、仏教には祟りという概念は無いため、神祇信仰をそのまま仏に当てはめたものと理解でききますね)。

 

神仏習合と神身離脱

その後、日本人が仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに、神道の神を迷える衆生の一種と位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲していると認識されるようになったとされています(神身離脱)

この時期から、越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らにより鹿島神宮賀茂神社伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設されました。

 

神仏習合と神の帰依

奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依する意思を示すようになりました(託宣とは神が人にのり移ったり夢に現れたりして意思を告げることです)。

こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望だったと考えられています(律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められました。大乗仏教は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われます)。

こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになりました。

 

神仏習合と神の可視化

東寺・薬師寺に見られるように、9世紀には神体が菩薩形をとる僧形八幡神も現れました(神の存在は元々不可視であり依り代によって知ることのできるものであったが、神像の造形によって神の存在を表現するようになりました)。

 

神仏習合と守護神

一方で、8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神とするようになりました。

710年の興福寺における春日大社は最も早い例です。他の有力寺院も守護神を持つことになりました(延暦寺日吉大社金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社)。

 

神仏習合本地垂迹

神宮寺の創建を経て、神仏の習合は進んでいき、10世紀頃には本地垂迹が成立しました。本地垂迹とは、仏菩薩が衆生を救済するために、仮に神の姿として現れたものとする説です。

本地垂迹説は、ケガレを忌避する神祇信仰に対し、ケガレから根本的に離脱する方法を提示できる仏教の優位を示すこととなった浄土思想の普及により出てきた動きであり、仏教上位の状況下において仏教側から神祇信仰を取り込もうとする動きとも理解できます。また、このような仏教優位の考え方は、ケガレと日常的に接する武士の心を捉えました。

 

神仏習合と神本仏迹説

鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を唱える伊勢神道唯一神が現れ、江戸時代には儒学の理論により両派を統合した垂加神道が誕生しました(これらは神祇信仰の主流派の教義となっていき、神道としての教義確立に貢献しました)。

 

神仏習合神仏分離

神仏分離とは、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させることです。

その動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中期後期以後の儒家神道国学復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏判然令に基づき全国的に公的に行われたものを指します。

 

さいごに

仏教伝来当初は仏教優位の神仏習合でしたが、江戸時代に儒学の助けを借りて対等とも言える神仏習合が叶いました。明治政府によりその道は一時阻まれましたが、日本には未だに神仏習合の陰が見られます。

神社の中の仏教、寺の中の神道を探すのも面白いと思います。